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クリスチャンという偶像

賛美できなくなった。

賛美していると、自分のような下手くそでどうしようもない人間の賛美がなんになるのか、と思えた。神様が喜ぶのかと思った。

信仰的にこの考えが良くないことは分かっている。誰か他の人がそう言っていたら、「そんなことは絶対にないよ。神様はどんな人のどんな賛美でも、そこにこめられた思いを受け止め、喜んで下さる。愛する子が自分のために歌う歌を喜ばない親がいるだろうか。神様の喜びはそれに勝る喜びだ」と伝えるだろう。

しかし、私はそのクリスチャンらしい声を素直に聞けない。


たくさんの若者が熱心に賛美をしている。情熱をもって礼拝をしている。ユースの盛り上がりはうらやましいほど。ただ、私は入れないなぁと感じた。

私の中で熱烈にガムシャラな信仰心というものが、薄れている。



いやはや、ご立派なクリスチャンだ。





私が歌う歌は虚しいものなんだ。だから賛美できなくなった。







ヨブはなんて絶望的な立場に立たされたことか。
熱心さ、敬虔、すべていかにもキリスト者らしい姿だった。

友人たちは、いかにもキリスト者らしい助言をする。
神に立ち返り、隠れた心も行いもすべて誠実に全身全霊でささげるのだ。

らしい姿がある。

人間には傲慢さがある。自分の行いにより築き上げていく信仰の塔のようなものがあるのではないだろうか。


自分の信仰心にたいする自負のようなもの、それが本当の恵みを遠ざけることもあるのではないか。


神の祝福を受けるにはこうすればよい。

人間が知った顔してこうすれば神さまの祝福を受けられるというような意識は人知れず高慢の芽に水をやるようなことではないだろうか。

まるで神様の祝福パターンをすべて把握しているかのような言葉・・・
マニュアル化した祝福。


私はクリスチャンだ。しかしそうでない姿のときがある。
キリスト教を信じていない人の中にも、まるでクリスチャンのような姿のときがあり、そうでないときがある。


何が違うのだろう。

十字架を知っている。ゆえにより罪深いのが私。


自分に対する特別意識。
それが、神様とのつながりを曇らせる。

神様は私を特別だと見てくださる。
しかし、自分自身を他の者よりも特別だと勘違いしてはならない。


冷水をかけられる思い。
私は特別な恵みを与えられたのだ。

それは私が特別だからではない。

恵みはそれ自体が特別だ。

私が特別だから恵みを受けたのではなく。
特別な恵みは特別だからこそ私にも及んだのだ。


いつのまにか自分の信仰が小さくこじんまりした姿にまとまっていたのではないか。
新しい姿になることを恐れて、古い自分にすがっていたのではないか。


信仰のリズムを新しく。

Job 42:1 ヨブは主に答えて言った。
Job 42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
Job 42:3 知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
Job 42:4 どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
Job 42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
Job 42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。



変えていこう。自分。


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