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フェスタ。

ゴスペルリンキングフェスタ
疲れました。

二日間参加しました。
初日、ちょっと音が大きいなと思っていました。
音がビリビリするんですよね。

二日目はそこが改善されているといいなと思ったのですが、さらに音量UP!
音の暴力を感じました。
暴力といえば、最前列で緊迫する出来事が起こっていましたね。何があったのか分かりませんが中年男性が誰かの胸倉をつかんで脅している姿が見えました。
ショックでした。
クリスチャンのイベントでそんな場面に出くわすとは思いもよりませんでした。
路上や、一般のライブ、他のどんな場面でも暴力を見るのは傷つくものですが、よりによって、クリスチャンのイベントでそのような姿を見ると、悲しくて辛くてどうしようもなくなりますね。

ものすごく動揺してしまい、祈りました。どちらの心の傷も主が回復してくださるように。
なぜ、神様を賛美する場面で暴力と出会ってしまうのか、辛いのですが、その暴力を振るった方のためにもイエス様は十字架につけられたのだと思い、その方の心が癒されるように祈りました。

うまくいかない思い、辛いことや苦しいことがあったのかもしれません。
自分でも自分の感情をコントロールできないくらい辛い過去や現状に振り回されていたのかもしれません。
私の知らない事情でその方は死にそうなくらい苦しんでいて、その苦しみが暴力という形で、あふれてしまったのかもしれません。
彼のために祈るものがいなかったのかもしれませんね。

どうあっても暴力自体を許すことは出来ませんが、その瞬間暴力に支配されたその方の心の暗さを考えると、かわいそうでなりません。被害を受けた方に慰めが絶対に必要ですが、誰よりも救いが必要なのは怒りに襲われたその方なのではないかと思いました。祈りました。

正直に言って、その後もあまり平安はありませんでした。
賛美で慰められたかったのですが、私には音量がきつくて、またクリスチャンロックの何を歌っているのか分からない賛美にはこちらの祈りを乗せることができず、苦しみました。

それと各出演者はタイトな時間割で次々に入れ替わるため、それぞれ短い時間に全力で思いを込めて賛美します。しかし会場のほうはずっとそれを受け止めているわけですから、さすがに疲れてきます。
手拍子も疲れるものです。ちょっと一休みではないですが、ゆっくり聞こうと思っていても、出演者はさあ出番だと情熱をもって、立ち上がって賛美しよう、手をたたこうとあおります。

賛美は恵みです。神様への賛美は、信仰の表れとともに自然発生するものではないでしょうか。
あおられて、無理に参加させられる賛美は、支配と偶像礼拝以外の何ものでもないと感じてしまいました。
そのまえの暴力の出来事と重なり、辛い誘導に感じられました。
ちょっと疲れて休みたい者にとって、立ち上がらない、手拍子もしないことに罪を感じてしまうほど、弱くなってしまいました。

いろいろな信仰の表現の仕方があり、それぞれが真剣に神様と向き合っているので、私がちょっときついなと思った導きも否定はできません。
だからこそ、お互いに一方的にならないように、会場のみんなと一緒に歌おうとするのは大切なことだと思います。
願わくば、その姿をみて、恵みを受けつつ、自分は自分としっかり境界を保ち平安でいる心を持っていたいものだと思いました。

今回は中継をされていたそうですがいかがだったのでしょうか。
会場では、このイベントは無料で、たくさんの方の協力と奉仕で成り立っていることをおっしゃっていました。
確かに出演された方、支えるスタッフのかたがたのご苦労は並々ならぬものだと感じました。
前の出演者の演奏が終わり、次の方が演奏するまで、本当に短い間にセッティングしなければならず、苦労されたことと思います。
その間をつなげるナビゲーターの方や、演奏者のトークにあらわれる奉仕の思いは素晴らしいものがありました。
演奏する前にメンバーで祈りあう方もいましたが、クリスチャンならではですね。
信仰を誇示する姿のように見えなくも無いですし(すさんだ見方だね私・・・)、できれば袖で密かに祈りあい、早く演奏して欲しいという思いも沸いたのですが、その姿を通して、イエスを知らない人が恵まれることもあると考え、共に祈りました。


そのような状況を会場の皆さんやスタッフの方々と共に現場で体感していたので、できればみなさん会場に来て参加してほしいと思いました。


中継、撮影、カメラワーク、色々と工夫を凝らしておりましたが、私個人の考えではいらないんじゃないかと思いました。
このようなイベントでは会場に人を集めなければなりたたないものです。
そのために会場を借りて、広告も出して、さまざまな機材も用意します。それを中継で全部みられるなら、
会場で「無料でやっていて大変だから献金を」と求める意味が少し不確かなものになると感じました。
非難を受けるかもしれませんが、そのように考えました。


会を重ねるごとに会場を大きくする必要もないし、大人数が参加視聴できることに意義を見出すこともありません。
クリスチャンの満足はいらないんですよね。
たった一人、主の救いを受ける方のためにクリスチャンの集会はあります。
エンターテイメントとしての完成度は二の次で、出演者の方々の自己満足もいりません。
神様が賛美されること、救いがあること。

祈りの時もなく、次から次へと入れ替わり立ち代りにあわただしく賛美の中に放り込まれてちょっと息が苦しくなりましたね。
また、同じ賛美をするにしても、微妙な感覚なのですが、救われた喜びを歌う中に、私の喜び私の賛美が前面に出てくるときがあります。
自分の受け止め方一つだとは思うのですが、恵まれるのは、救ってくださった方を喜ぶときです。
その救いを前にすると自分の小ささ、罪の深さを強く感じ、だからこそこのような罪深い私を救う神様の恵みがさらに深く計り知れないものに感じられ、神様の偉大さが前面にあらわれます。
個人的な感覚ですが。救いの喜びの中にも「救われた喜び」と「救ってくだる方がいる喜び」と表現に微妙ではあるけれどもまったく違う差があるように思えます。
救われて、喜びを得た自分を表すか、救われて、救ってくださった方を表すか。

私自身が神様の御業より、自分のことを証し誇ることが多いと思っています。
すべての栄光が主にあるようにと祈り、また発言しますが、私はまだまだ信じる自分の栄光を求めるし、自分の計画がうまくいくことを望みます。
いつまでたっても自分を良く見せたいという思いを捨てきれないのです。

・・・疲れただとか傷ついたとか文句ばかり、ああだこうだという自分が一番支配的で暴力的な存在だなあと思います。

中年男性には私の姿が現れていました。
自分の心の狭さだ。

出演された皆さんはクリスチャンアーティストとして、イエス様が崇められることを望んでいらっしゃるでしょう。
自分が偶像にならないように日ごろ気をつけていらっしゃると思います。

私は目だった能力もない自堕落で未熟な一信徒ですが、自分の力を誇り自分を偶像のように掲げてしまうことがあります。
アーティストの方はさまざまな誘惑や試みに出会うことでしょう。私とは次元の違う、困難と信仰の中を忍耐をもって歩んでいらっしゃることと思います。

すべては神様の愛だとどなたかおっしゃっていました。皆さんにならい私も、すべては神の恵みという立場から離れないようにしていきたいです。
私の傲慢な姿が変えられ、謙遜に仕えるものとなれるように、主より前にでることがないように。

フィナーレでmigiwaさんがまとめてくださいました。ゆっくりと確かめるように神様への思いを証しするmigiwaさんに信仰者の裸の思いが表れているようでした。

線の細い柔和なかたですが、神様の働きの内にある硬い決意とゆるぎない神様の恵みを感じました。主の十字架を自分のものとして生きていらっしゃるのだなと思いました。

出演された皆様、支えて下さったスタッフの皆様が、変わらないイエスキリストの愛に生きて、新たな年に向け種を蒔き続けて行く者となるように祈ります。
また、今回会場にこられた方々もそれぞれに与えられた場所とやり方で、神様の恵みを伝え、また出会いを分かち合っていく新年になることを祈ります。




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