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救いは行いに奪われない。

救いに行いは必要無い。

しかし、救われた者は行わずにはいられない。


自分に与えられた救いのすばらしさ、イエスさんが示された愛の深さ、その言葉に込められた真理を、伝えずにはいられないのです。


ただ、それが何か守らなければならないことのように思えてくることがあるのです。



実際には私は、愛を受けるにふさわしくない姿で救われました。

そのままでも救いは成っています。


しかし主が与えてくださった恵みにふさわしい姿でありたいと願う。

だから清さを求めます。


その姿は、主への感謝の思いからくる愛の姿のように見えますが、そうではない場合もあるのです。

ただで恵みを受け取ることに落ち着かず、何かしらの代償を支払い、自分に価値があるから、恵みを受けたという理屈を求める心がある場合も無いわけではないのです。


自分に価値を見出したい。価値があるから救われた。
そう思いたいのです。


あなたは高価で尊い、だから救いを与えた、そうではないのです。
あなたはイエスを信じた、だから、高価で尊いのです。

救いは私によってではなく、イエスによるのです。

それを勘違いしてはなりません。


また、聖化の歩みを進めたい、神への栄光をあらわすキリスト者として証になるにふさわしい姿でありたいと願う思いも、行き過ぎると、弊害がおこります。


自分を清くしていくうちに恵みによる救いを忘れ、自分の清めによる救いという行いによる救い感が生まれてくること。

清めを行っていくうちに救いが恵みから行いへずれてしまうのです。


そうなると恵みがどんどん薄れていきます。



そして人は時に堕落した性質に捕まってしまいます。

それが重なると落ち込んでしまう訳です。



落ち込むばかりではありません。

罪を感じ、滅びを思う訳です。

自分が救いから洩れる者であるように。



だからこそ、私たちは時に立ち止まり、救いの原点へ視線を戻す必要があります。

的はずれの歩みとならないように。



いつでもイエス様が先であり、主なのです。

私の行いではなく、恵み。


伝道も、祈りも、賛美も、救われた後に生まれる感動や情熱から来るものです。


自分自身を降ろしましょう。
そしてただイエス様だけを仰ぎ見ましょう。

そこに救いがあります。



イエス様の限りのない愛と祝福に、すべてを明け渡す私たちになりますように。





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闇の中の光。

主の貧しさは地上のどんな豊かさにも勝る。





私たちは貧しさ、飢え渇き、足りなさに苦しみ絶望する。

信じる私の身がなぜにこれほどまで惨めなのだろうかと。


痛みはなくならず、問題は尽きることが無い。
理不尽に出会い、悪感情につまづく。


なぜだろうか。



なぜこんなにも満たされないのか。

どうすればいいのか分からず、分からないまま歩く。

暗闇だ。死んでしまいたくなる。
闇がまとわりついてくる人生。

どこまでも重く重く、ねじ伏せられる。

光がとどかない深海の底に沈むようだ。




しかし、私は知っている。



そこにおられる方を。
自らどん底に足を踏み入れた、奇跡の方を。



その方は、天の光のうちにいることが出来たはずなのに、どん底にいる私たちを救うために、自ら降り、すべての苦しみを受け、闇の中を歩まれた。


届くはずの無かった深海の奥底に光が降って来た。


息も出来ず、苦しんでいた私にとって、その光はまさに命にあふれる奇跡をみるようだった。

これまで見えなかった、自分がいる世界がすべて明るみにだされた。




その方は光であった。死に至るまでも。
その死によって、信じるすべてのものに命の光が燃え移った。


ああ、だから私も行くのだ。絶望の淵へ。
誰かを救う、世の光となるため。


私自身が光なのだ。





どうしようもない絶望の淵をいくとき、まさに底知れぬ穴に落ち込もうとするその瞬間、私は主にあって輝く。



どこに進もうとしても真っ暗で、歩くことさえ無駄だと思える絶望の中、私は主にあって、一歩を照らす。





主の貧しさは地上のどんな豊かさにも勝る。

その通り。


その光で照らせぬ闇は無い。
なぜなら、その光は闇の果てを越えたから。

死を越えて昇る太陽。




私の苦しみ、痛み、孤独は、すべて、主の歩まれた道のり。
光として歩んでいる証。



信じよう。





私はいま、苦しみの中にいる。
貧しさ、飢え渇き、足りなさに苦しみ絶望する。

惨めで、痛みはなくならず、問題は尽きることが無い。
理不尽に出会い、悪感情につまづく。


しかし、それでも、私は神様を愛する。



何にもかえがたい愛を受けたから。


父の愛。

最近、放蕩息子が私の中におります。
ここ数日、気になる聖書箇所です。

駆け寄る父親の姿。このような愛の姿で私たちは迎えられているのだということ。
放蕩の限りを尽くし身を滅ぼす汚らわしい罪の姿を、構わず抱き迎える父親の愛を思い熱くなっているのです。


社会では失敗したり、罪を犯したものは罰せられます。気分によって態度も変えられ、不安を覚えることもあり、それに慣れている私たちです。

しかし、神様は違います。私たちの神様はそのような弱い私の心を受け止めてくださるのです。


罪を犯した私たちは、なやみます。

「罰せられるのではないか」
「怒られるのではないか」
「何か報いを受けて苦しむのではないか」
「拒絶され捨てられるのではないか」

沢山の不安に押しつぶされそうな思いです。



その心を優しく包んでくださるのが私たちの神様です。

地平の果てから覗く朝の光のように、闇の中から昇ろうとするわずかな信仰の輝きを神様は捕らえ、自ら迎えに来て引き寄せてくださいます。

神様から離れていると感じるとき、絶望しないでください。
あきらめないでください。

御前に進むことを恐れずにいてください。

神様は誠実な方です。

信仰生活で苦しみ悩む闇の中を行く時があるでしょう。
恐れずにいてください。



私たちが神様の前に帰ろうとする時、一人ではありません。

イエス様が私の手を握り、一緒に歩いてくださいます。
闇の中をいつも共にいてくださいます。

そして、神様への道すがら、力強く導いてくださいます。

その手を信頼して歩みましょう。




神様の愛は遠くにあるのではありません。
いつもそばに、あなたと共にあります。




http://blog.cloud-by-day.jp/?eid=1036554


大和カルバリチャペルという教会で奉仕されている副牧師の賛美チーム「Cloud By Day」のブログ。
放蕩息子に向かう父親の愛を歌い上げています。

素敵な動画でしたので、ご紹介させていただきます。
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