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泥沼の神様。

最近、ずっと職業訓練校のことばかりにかまけていました。

ちょっと聖書の御言葉から遠ざかっているように感じます。
健康的には元気で、精神的にも落ち着いているように思えますが、信仰的には暗くなっていることに気がつかないほど盲目になりつつあるのかもしれません。

講師いわく、うちのクラスは団結力があるし、仲がいいし、皆、一生懸命だし、まれにみる良いクラスだそうです。そういうこともあって、馴れ合ってきています。

学校の中の人間関係を気にしだすと危険ですね。
勉強するという本来の目的を忘れてただの仲良しこよしになっています。

神様を中心にした交わりでなければ、ただ人間的な都合による絆しかできません。
僕は軽い人間なので、ついはめを外し過ぎてしまいます。それが問題。福音の影響を与えるべき立場におかれているはずなのに、世の交わりの中で逆に人間的な影響を受けています。

周りに女性が多いのも怖いですね。クリスチャンで無い女性の近づきは不安になります。

神様による導きを信じないすべての関係は姦淫ではないでしょうか。

主の御教えがいつも僕たちの中心におかれてあればいいですが、神様によらない僕の心は信用できません。
気づかないうちに信仰の綱がゆるんで、底なしの沼に落ち込んでいるのではないかと思うときがあります。

祈らなければ。


沼で思い出しましたが・・・以前、牧師に、私たちの信仰の歩みで泥沼の体験も必要だということを教えられたことがあります。罪に汚れて落ち込み、何もかも捨てて底に沈む時、主は救いの真理に目を開かせてくださる。盲目の者に、主が唾で土を捏ねた泥をまぶたに塗り、目を開かせてくださったように、私たちのどん底の体験を通して、神様は命の道を指し示すのだと教えられました。

人に唾をはきかけられるような体験も、私たちの目を開くために必要な主の導きということもあります。その中でも主は救いの御手を差し伸べてくださいます。私の罪を明らかにすることにより主の臨在の証がなされ、さらに救いが伝えられる。

人間としては、できることなら苦しみは避けたいですし、恥ずかしい目にはあいたくはないものです。
きれいに見られたいし、よい人間に見られたい。でもそれは、自分を偶像にしてしまうことがあるし、救いを自分のうちにとどめて広がりを妨げることがあるのですよね。

神様は積極的に私たち信じるものを苦難の場におかれることがあるかもしれません。
そうすることで、どんな状況にある人でも神様はお救いになられるんだと証するためです。

こんな恥ずかしい過去をもった人が、堂々と主を証している。こんなぼろぼろの状態にある人が、救いを伝えている。それぞれが自らの罪を悔い改めて、主により新しく生まれ変わっていく。その姿を通して、神様は本当にすべての人に等しく恵みを与えてくださり、救いの道を用意していてくださるのだ、という希望を示すためです。



ヨハネ9:1-3
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。


困難、迫害、苦痛、病の中にあるすべての方々へ、心から、主の救いがあるように祈ります。
孤独、悲しみの内にある方々へ、天の父の愛がみなさんを包みますように。
恐れ、迷い、悩みの中にある方々へ、御霊の導きと満たしがありますように。

愛する皆さんと共に、主の御前にひざまづき、天を見上げ賛美する時が来ますように。
いつまでも、変わらない主の救いのうちに歩まれますように。

アーメン。





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ただいま勉強中。

あけましておめでとうございます。更新頻度はカメの歩みよりのろい私ですけれども本年もよろしくお願いいたします。

どうでもいい話ですが、2011年という字面が何か好きになれないんですよね。何となくバランスが崩されるんですよね。どうでもいいことですけれど。

さて、前回UPしました続きの話をしていきましょう。
職業訓練校への申し込みは無事合格し、12月から授業を受けております。
ホームヘルパー2級です。

実は面接でやってしまったのですよ。4人での集団面接だったのですが、会場に行ってビックリ。私一人だけ私服。みんなスーツできていました。ガーン!と衝撃を受けました。あああやっちまったーーーーーー!と心で叫びました。時間を待っている間がっくり、バカだ、私のバカ。。と落ち込み。



あのですね、職業訓練校の面接をそんな重く考えていなかったんですよ。仕事の面接と比べて重要じゃないと見下していたとかではなく、介護の勉強するための面接だから、何か動きやすい服装でいったほうがいいのかもしれないなぁと漠然と思って、軽い服装でいったわけです。面接なのにね。確かに仕事の面接とは違って、緊張感はあまりなかったのですが。。

ま、やってしまったものはしかたがない。とすぐに開き直り、あきらめて適当にというか、気を抜いて望もうと面接に向かいました。

面接官の質問は、「授業を受けようとおもった動機」など、簡単なものばかりでしたので特に問題ありませんでした。最後の質問で、「資格を取り就職していくわけですが、これまでの経験などから自分なりのアピールする部分をお聞かせください。」というような質問が来たんですね。そこで、私はあまりアピールできる部分が無いですし、どうせだめなら教会の証しでもしてやれと、短いですが教会生活で得てきたことや学んだことをわずかですけれども証ししました。教会には高齢者の方が多いですし、その方々から受ける恵みや、聖書を通して知る愛と謙遜の姿勢など、ほんの少しだけ。あまり熱心に語ってもいけないかと思ったので。それでも、ここにいる人だけでも教会に興味を持ってくれたらいいなという思いでした。

おかげで、ちょっと心が燃えて、その話ができただけでもこの面接に来た意味はあったなと満足でしたね。



それから数日後、合格の通知がきました。
神様はここでの学びを必要なこととして私に与えてくださいました。

学びは始まってみると、介護の現状、実際に現場で働く方々が直面する苦難など、先生や語る一つ一つの言葉に重みが感じられ、こんな自分に介護などできるのだろうかと、不安にあったりもします。

しかし、受容の姿勢や、自立のために導いていくやり方、利用者が持つ生きる力を奪わないで、そこを支え強めていくこと、介護者がやりやすいようにではなく、利用者が生きやすいように寄り添っていく。というようなことを学んでいくと、人は聖書を通して得る教えに生かされている、ということが改めて感じられるのですよね。神様に仕えるものとしてあるべき姿勢が実践の場で生かされる成長の機会になります。

また、先生方が語る、現場と法律との戦いや、利用者の方との厳しく生死のかかったやり取り、また苦難の中で得る感動に満ちた支えあいなど、そこに携わるかたがたの、人間に対する真摯さに心を打たることがたくさんあります。

ただお話を聞くだけなので、見えない苦労や、悲惨な状況など分からないのですが、感じるのは、そこで働く方の苦労、また実際に介護を受ける方の苦労、家族の苦労、国の苦労など、たくさんの困難がありながらも、なんとか皆が満たされるようにと頑張っている方々の努力と忍耐ですね。

大変、勉強になります。

さて正月休みも終わり、授業が再開されます。残り二ヶ月の学びの間、しっかり高齢者とともに生きるための技術と知識を得ていきたいと思います。


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満了。

あっ






という間に半年たちます。

現在の仕事についてから。

契約が終わるので、新たな職探しをしております。


さてねぇ、どんな仕事をしましょうかね。
三十路を超えた特別な資格を持たない役立たずのオッサンには就活は辛いものです。

忍耐。
継続は力なり。

出来ることならばひとつの職場に落ち着きたい。

そう思っていまの職場に向かったのですが、、

心も体もぼろぼろに削られる環境で苦しみました。

契約期間だけは勤め上げようとがんばり、ようやく半年たつのですが、会社は私の退職を期間満了にはせず、自己都合の退職として取り扱いました。

その理由が、期間が終わるけれど会社から継続の依頼があったのに、それを断ったから自己都合だと言うのです。

雇用契約って何?
契約期間って何?


何のために頑張ってきたのかわからない扱いでした。

極端な話、素行が悪かったり、無断欠勤がつづいたり、会社としてはこれ以上働いてほしくないという人が期間を終えたら期間満了で退職できるわけです。

そして、休まず、まあ、まじめに勤め上げ、会社としてはもう少し働いてほしいと願う人が、契約更新をせず退職したいと願えば、自己都合退職にするわけです。


ほかの会社がどうなのか私は知らないので、これが当たり前のことなのかもしれません。

そうだとしたらみんな辛い思いをしつつも忍耐をして頑張って生きているのだなあと思い苦しくなりました。

働くということは大変なことだと思わされます。


退職、次の職探しといろいろありますが、まだ一週間あります。

暗い思いになることが多くあった職場でしたが、最後の最後まで、主がそうしてくださったように、よく仕え、愛をもって立ち向かおうと思います。


願わくば主よ、この地での働きが祝福されますように。。





心から願います。よき職場をおあたえください。神様、いつも一緒にいてくださることを私がいつも感じていられるように、揺るぎないあなたへの信仰をもっていられますように。

力ある御霊の働きによってお導きください。





主よ、あなたは今日も生きておられすべてを治めておられます。

あなたの御力に頼ります。あなたに不可能はありません。その御業が現れたら、どんな暗い環境でも光に満ちた環境にすることが出来ます。

私自身が、あなたの御力の現れを阻害することがありませんように、私の弱さや臆病、怒りや暗い罪の思いから、あなたの働きを邪魔することがないように祈ります。

主よ、辛い現実を前にくじけ、力なく座り込む私を勇気付けてください。

ただあなたにすがり、あなたによって歩みをすすめることができますようにお助けください。

このような小さな私でも世の光として立つことはできるのでしょうか。


小さなことにも動揺し思い悩む私に、輝くものがあるとしたら、それはただ、いつもいつまでも変わらずともにいてくださる主よ、ただあなたの愛と恵みの輝きです。

十字架で流されたあなたの血潮の輝きです。


我が主よ、偉大なる神様、あなたはいつも暗闇に立ち向かう私たちの希望として光り輝いています。

そばにいてください。
たとえ私が罪ゆえに離れようとしても、つかんで離さないでください。

私が嫌だと泣きわめいても、無理やりにでも、あなたの御心の内に進ませてください。

主よ。

あなたのように歩めますように。
あなたの御心のままに歩めますように。









・・・・・・・・・・・・これが先日の私の姿。。
UPをあとにしようと思って、24日の主日を過ごしたのち気づかされる、私の姿。

私は私を証しているのです。。
着飾った信仰を見せ付けたがる私が本当の私です。



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愚痴

愚痴をこぼしたい。


いまの職場、あまり環境がいいとはいえない。

私はコミュニケーションを重要なポイントとしておりまして、スムーズで活発なコミュニケーションなくして、長く続く良い職場は生まれないと思っております。


いくら技術的に優れている人物がいても、それを伝える技術を持ち合わせていなければ、せっかくの技術がその人で終わってしまう。

技術的に優れてはいなくても伝える技術があれば、職場環境は整えられ、後進が育ちやすくなる。


さて、新しく入った私ですが、職場の人はほとんど仕事にかかりっきりで、話しかけてこない。

そして、放置が続く。
何が必要なのか指示をくれず、こちらから聞いても、自分で判断できるようになるための恒久的な教えではなく、その場その場の答えだけしかくれない。

装置に入れる品物をどの順番で流すか。その順番の決め方を教えてくれれば自分で判断していけるのに、次これ、その次これ、という答えしかくれない。

だから、いちいち確認しないといけない。

効率が悪い。

なんで放置するんだろう。みんなが、他の誰かが指示するだろう、教えるだろうと思っているんじゃないか。

「手が空いたので何か仕事をください」と言っても、「うーんそうだなぁ」と困っている。しかたなくこちらから「じゃあ、あれやっておきましょうか」と促すと、「ああそうだねお願い」となる。


分からないことがあって、先輩に聞くのだが、忙しいためか「ちょっと待って」といわれ放置。

新人いじめではないようだが。

自分で言うのもなんだが、私はどちらかというと、仕事は出来るほうだ(ざれごとを言うな)。器用だし、よく気がつく。

班のリーダーをつとめていたこともある。人当たりがいいため評判はいい(自分で言うと馬鹿みたい)

正直言っていまの職場はこれまでに無い放置っぷり。
新しい人を受け入れる体制が整っていないまま、量産を始めて人を雇い始めたようだ。

現場に入るまでの教育期間は一週間以上もあったのに、現場での受け入れ教育はほぼ無し。
現場では何も教えないから、その前に教育期間を設けたのか?

誰が教えるとか、誰についてというのも無く誰も彼も何をどこまで教えているのか把握しないまま、ほったらかしだ。

「これ造ってください」「どれくらい造ればいいですか」「うーんいっぱい」「・・・いっぱいってどれくらいですか・・・」「これ結構つかうんだ、いっぱいやっといて」「・・・はい(助けて)」

子どもじゃないんだから、いっぱいなんて指示あるかい。

あなたのいっぱいはどれくらいなの?

同期の人間に「この日は何か休みみたいだよ」と聞き「え、本当?何も聞いていない」というと先輩が「カレンダーに書いてますよ」って、手帳から小さなカレンダーを出すが、そんなカレンダーあったの?「もらってないの?」ってあんた、存在することじたい知らないよ。

今日一人辞めた。

「はじめからこんなに放置だし、人によってやり方が違うし、装置を動かす段になってからはもっと大変そうだし、不安でしょうがない」と、話していた。

実際、不安。このまま、ここで働くのか・・・自分がもったいないと思ってしまった。
ここで働く時間がもったいない。

ずっとはいられない。



でも、生活のためにお金は必要。安定している会社でもある。
困ったもんだ。

新しい月なのに、もう暗く沈んでいる。
神様。

辛いです。


とまあ愚痴をこぼして眠る。



思いもかけず。

今週、ようやく教育が終わり、現場へ。



火曜日の朝、所属する班の皆様方に挨拶をしました。

「小田原在住のトウヘンボク、賛美好き三十代、神様のしもべプラです」※心の声です。表の声はいたって真面目に挨拶です。


班長に案内され、皆さん一人一人のご紹介をいただき、現場の流れを簡単に教わりました。

班長「さて、何からはじめてもらおうかな!」

私「…私の社長室をまだ見ていませんが?」※一生見ることはないでしょう。


さあ、やりましょうか…という矢先。



別の部署から応援要請発動!

勤務初日でいきなり他の現場に借り出されましたぁ~っ!


トホホ。。皆さんいずれよろしくお願いします。



初日から間が抜けているというか、なんと言うか。

面白いですね^^


初めての仕事は、色々と探りながらで、疲れる面もありますが、皆様に喜んでいただけるようがんばります。



ところで、会社から駅まで自転車で行くのですが、今日の帰り、土砂降りをくらいました。

会社を出た時、雨はぽつりぽつりで、駅までもつと思ったらあっという間に大雨とカミナリの大合唱。

ちょっと止まってカッパを着ればいいのに、もうイイやと、濡れていくのは、あんまり賢くないですね。


時には止まることも必要。

意地なのか、面倒なのか、結局自分が被害をこうむるのに、なぜか止まろうとしない私。

反省。


これも一つの反射神経です。




雲行きが怪しいとなったら備えをし、実際に雨が降ったら時を移さずすぐにそれを用いましょう。


不信、恐れ、迷いの波風なんのその。すこしでも濡れるものかと目を開き、神様の愛と信頼を身に帯びて、燃える御霊を心に抱いていきたいものです。


エペソ6:14-18
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。



あなたの雨具になりたい。
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