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テゼ 黙想と祈りの集いのこと。

長い間ご無沙汰しておりました。いつの間にか5月ですね。
いろいろありましたが、とりあえず今日のこと。


今日、テゼの歌による「黙想と祈りの集い」に参加してきました。



最近、教会のイベントに参加していないなあと思い、近くで何かイベントが無いか探してみたのです。するとテゼ関係のブログに行き着きました。

集会の予定カレンダーを見ると、5月9日の19時から20時30分に日本聖公会藤沢聖マルコ教会で集いがあるようです。

聖公会は初めてでした。ただ、とにかく神様を賛美する空間に身をおきたいと思いました。

ずっと昔、四谷のイグナチオであったテゼの集いに参加したことがあります。神様の御元にある静寂と賛美の美しいハーモニーに心癒されたその時の恵みが思い起こされ、ちょうど休みだし、自転車でいける距離だから行ってみようと思った次第です。



ちなみに、youtubeでテゼを検索するといくつか見つかるので興味がある方は検索してみてください。雰囲気が伝わります。




教会につくと入り口には誰もおらず、案内の紙等も無く、入って大丈夫なものか迷いましたが、とりあえず入ってみると、礼拝堂からどなたか来られました。

私「すいません。テゼの集いはこちらで・・・」
どなたか「はい、こちらです。ようこそおいでくださいました」

その方は用事があって出てこられたようでそのまま礼拝堂とは反対側へいかれました。




ということで、礼拝堂に入ると、長椅子が並んでいます。ちらほら人が座っています。照明が落とされた天井の高い綺麗な礼拝堂の中、皆さん静かに、それぞれ黙想の中にいるようでした。



私は久しぶりの教会で、心が静まるというか、神様と自分の間にさえぎるものが無いような心持ちになり、素直に、泥臭く子どもじみた思いを吐き出すように祈れました。



さきほど、たまたま迎えてくださった方が戻り、話し始められました。
「少ない人数なので、皆さん、前に集まりませんか」
どうも集いの代表の方のようです。




集会に参加されたのは、全部で10人満たないくらいでしょうか。
小さな集いでした。しかし、とても誠実な集いという感じを受けました。


テゼの短い賛美があり、聖書の御言葉があり、小さな祈りがあり、静かに神様を思う時がありました。
テゼの賛美は一つ一つがとても短く、繰り返し繰り返し歌うことで会衆が一緒に歌えるようになっていきます。


楽器は、ハープだったかな。笛のようなものもありました。終始、目を閉じて祈りつつ賛美していたので、よく覚えていません。



演奏者と賛美リードされる方々の声についていくように不確かながら自分も声を出していく流れは、先を歩むイエス様の足跡をたどるような心地です。

半歩後から音についていく流れが、徐々に旋律を覚えることで、そば近くを歩むことが出来るようになり、一体感に包まれます。

覚えたからといって少し声を張ると、自分の声が邪魔になり、美しく静かに流れる空気が乱されるように感じます。陰としてそっと歩むということを思います。

純粋に神様を賛美することは、喜びや激しい信仰の思いを超えて、ただ静かに深く絶え間なく、心臓の鼓動のように感じられるものなのかもしれません。



神様を賛美するためにあるいのちを感じます。




詩篇が読まれました。

1編
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。



・・・私はずいぶん、御言葉の泉から離れていました。
世の流れに染まり、神様の恵みを忘れ、祈らず、礼拝せず、罪に走り、御言葉を遠くへ置く日々。



私は渇いていました。



御言葉を受けて、神様の前で自分の情けない姿を吐き出します。



いくつか賛美があり、また聖書が読まれます。


ヨハネ14
1 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。




悔い改めと癒しと、神様の愛は果てしなく、私の小さな器を満たしてあふれさせます。


つい先日、思いが囚われる出来事があり苦しんでいたのですが、御言葉がせまります。神様の御手は大きい。心を騒がせず、神様を信じ、イエス様を信じる。すべてに及ぶ主の御心を感謝する・・・そのように、心を解くことができました。

集いはあっという間に終わりました。いつまでも賛美し続けていたい思いでした。この集いに参加できたことは神様からの愛の表れなのだと信じます。

神様からずっと離れて過ごしていたので、私の崩れた信仰にとっては、ほんの僅かな回復かもしれませんが、いのちを繋ぐ大切な一時でした。


救いは主にあります。

私たちの父なる神様がほめたたえられますように。




エペソ人への手紙 1章

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
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フェスタ。

ゴスペルリンキングフェスタ
疲れました。

二日間参加しました。
初日、ちょっと音が大きいなと思っていました。
音がビリビリするんですよね。

二日目はそこが改善されているといいなと思ったのですが、さらに音量UP!
音の暴力を感じました。
暴力といえば、最前列で緊迫する出来事が起こっていましたね。何があったのか分かりませんが中年男性が誰かの胸倉をつかんで脅している姿が見えました。
ショックでした。
クリスチャンのイベントでそんな場面に出くわすとは思いもよりませんでした。
路上や、一般のライブ、他のどんな場面でも暴力を見るのは傷つくものですが、よりによって、クリスチャンのイベントでそのような姿を見ると、悲しくて辛くてどうしようもなくなりますね。

ものすごく動揺してしまい、祈りました。どちらの心の傷も主が回復してくださるように。
なぜ、神様を賛美する場面で暴力と出会ってしまうのか、辛いのですが、その暴力を振るった方のためにもイエス様は十字架につけられたのだと思い、その方の心が癒されるように祈りました。

うまくいかない思い、辛いことや苦しいことがあったのかもしれません。
自分でも自分の感情をコントロールできないくらい辛い過去や現状に振り回されていたのかもしれません。
私の知らない事情でその方は死にそうなくらい苦しんでいて、その苦しみが暴力という形で、あふれてしまったのかもしれません。
彼のために祈るものがいなかったのかもしれませんね。

どうあっても暴力自体を許すことは出来ませんが、その瞬間暴力に支配されたその方の心の暗さを考えると、かわいそうでなりません。被害を受けた方に慰めが絶対に必要ですが、誰よりも救いが必要なのは怒りに襲われたその方なのではないかと思いました。祈りました。

正直に言って、その後もあまり平安はありませんでした。
賛美で慰められたかったのですが、私には音量がきつくて、またクリスチャンロックの何を歌っているのか分からない賛美にはこちらの祈りを乗せることができず、苦しみました。

それと各出演者はタイトな時間割で次々に入れ替わるため、それぞれ短い時間に全力で思いを込めて賛美します。しかし会場のほうはずっとそれを受け止めているわけですから、さすがに疲れてきます。
手拍子も疲れるものです。ちょっと一休みではないですが、ゆっくり聞こうと思っていても、出演者はさあ出番だと情熱をもって、立ち上がって賛美しよう、手をたたこうとあおります。

賛美は恵みです。神様への賛美は、信仰の表れとともに自然発生するものではないでしょうか。
あおられて、無理に参加させられる賛美は、支配と偶像礼拝以外の何ものでもないと感じてしまいました。
そのまえの暴力の出来事と重なり、辛い誘導に感じられました。
ちょっと疲れて休みたい者にとって、立ち上がらない、手拍子もしないことに罪を感じてしまうほど、弱くなってしまいました。

いろいろな信仰の表現の仕方があり、それぞれが真剣に神様と向き合っているので、私がちょっときついなと思った導きも否定はできません。
だからこそ、お互いに一方的にならないように、会場のみんなと一緒に歌おうとするのは大切なことだと思います。
願わくば、その姿をみて、恵みを受けつつ、自分は自分としっかり境界を保ち平安でいる心を持っていたいものだと思いました。

今回は中継をされていたそうですがいかがだったのでしょうか。
会場では、このイベントは無料で、たくさんの方の協力と奉仕で成り立っていることをおっしゃっていました。
確かに出演された方、支えるスタッフのかたがたのご苦労は並々ならぬものだと感じました。
前の出演者の演奏が終わり、次の方が演奏するまで、本当に短い間にセッティングしなければならず、苦労されたことと思います。
その間をつなげるナビゲーターの方や、演奏者のトークにあらわれる奉仕の思いは素晴らしいものがありました。
演奏する前にメンバーで祈りあう方もいましたが、クリスチャンならではですね。
信仰を誇示する姿のように見えなくも無いですし(すさんだ見方だね私・・・)、できれば袖で密かに祈りあい、早く演奏して欲しいという思いも沸いたのですが、その姿を通して、イエスを知らない人が恵まれることもあると考え、共に祈りました。


そのような状況を会場の皆さんやスタッフの方々と共に現場で体感していたので、できればみなさん会場に来て参加してほしいと思いました。


中継、撮影、カメラワーク、色々と工夫を凝らしておりましたが、私個人の考えではいらないんじゃないかと思いました。
このようなイベントでは会場に人を集めなければなりたたないものです。
そのために会場を借りて、広告も出して、さまざまな機材も用意します。それを中継で全部みられるなら、
会場で「無料でやっていて大変だから献金を」と求める意味が少し不確かなものになると感じました。
非難を受けるかもしれませんが、そのように考えました。


会を重ねるごとに会場を大きくする必要もないし、大人数が参加視聴できることに意義を見出すこともありません。
クリスチャンの満足はいらないんですよね。
たった一人、主の救いを受ける方のためにクリスチャンの集会はあります。
エンターテイメントとしての完成度は二の次で、出演者の方々の自己満足もいりません。
神様が賛美されること、救いがあること。

祈りの時もなく、次から次へと入れ替わり立ち代りにあわただしく賛美の中に放り込まれてちょっと息が苦しくなりましたね。
また、同じ賛美をするにしても、微妙な感覚なのですが、救われた喜びを歌う中に、私の喜び私の賛美が前面に出てくるときがあります。
自分の受け止め方一つだとは思うのですが、恵まれるのは、救ってくださった方を喜ぶときです。
その救いを前にすると自分の小ささ、罪の深さを強く感じ、だからこそこのような罪深い私を救う神様の恵みがさらに深く計り知れないものに感じられ、神様の偉大さが前面にあらわれます。
個人的な感覚ですが。救いの喜びの中にも「救われた喜び」と「救ってくだる方がいる喜び」と表現に微妙ではあるけれどもまったく違う差があるように思えます。
救われて、喜びを得た自分を表すか、救われて、救ってくださった方を表すか。

私自身が神様の御業より、自分のことを証し誇ることが多いと思っています。
すべての栄光が主にあるようにと祈り、また発言しますが、私はまだまだ信じる自分の栄光を求めるし、自分の計画がうまくいくことを望みます。
いつまでたっても自分を良く見せたいという思いを捨てきれないのです。

・・・疲れただとか傷ついたとか文句ばかり、ああだこうだという自分が一番支配的で暴力的な存在だなあと思います。

中年男性には私の姿が現れていました。
自分の心の狭さだ。

出演された皆さんはクリスチャンアーティストとして、イエス様が崇められることを望んでいらっしゃるでしょう。
自分が偶像にならないように日ごろ気をつけていらっしゃると思います。

私は目だった能力もない自堕落で未熟な一信徒ですが、自分の力を誇り自分を偶像のように掲げてしまうことがあります。
アーティストの方はさまざまな誘惑や試みに出会うことでしょう。私とは次元の違う、困難と信仰の中を忍耐をもって歩んでいらっしゃることと思います。

すべては神様の愛だとどなたかおっしゃっていました。皆さんにならい私も、すべては神の恵みという立場から離れないようにしていきたいです。
私の傲慢な姿が変えられ、謙遜に仕えるものとなれるように、主より前にでることがないように。

フィナーレでmigiwaさんがまとめてくださいました。ゆっくりと確かめるように神様への思いを証しするmigiwaさんに信仰者の裸の思いが表れているようでした。

線の細い柔和なかたですが、神様の働きの内にある硬い決意とゆるぎない神様の恵みを感じました。主の十字架を自分のものとして生きていらっしゃるのだなと思いました。

出演された皆様、支えて下さったスタッフの皆様が、変わらないイエスキリストの愛に生きて、新たな年に向け種を蒔き続けて行く者となるように祈ります。
また、今回会場にこられた方々もそれぞれに与えられた場所とやり方で、神様の恵みを伝え、また出会いを分かち合っていく新年になることを祈ります。




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神の家族。

先日、足立区の「神の家族主イエス・キリスト教会」へ行ってまいりました。


Sound of Worshipです。


賛美賛美賛美の賛美一体です。



前回は落ち着いた雰囲気で、よく祈りが積まれていた感がありました。

そして今回。

それぞれ自由なスタイルで神様を賛美し、開放感があったように思えます。


Migiwaさんのワーシップリードも冴え、みな立ち上がるよう導いて盛り上がりましたね。



また、田島牧師さんのメッセージが良かったですね。

一致!


教会の一致、信徒の一致。

切実な願いです。



イエス様が十字架で罪をあがない、私たちを一つにしてくださいました。


罪によって神様から離れていた私たちですが、主によって父と子の関係に入れられた訳です。

また、罪は人と人との間も裂いておりました。

しかし、十字架の主を見上げる私たちはその贖いの血によって兄弟姉妹となったのです。





ああああああああすべてを超えてイエスキリスト!

あなたによって私たちは一つ!!!

みんなで賛美するって素晴らしい!



素敵な集会でした。




教会も素敵。

先月できたばかりだそうで、外観はレストランかホテルのような雰囲気。

カフェもありました。
集会後そこで交わり。


単立の教会でアットホームな様子はまさに神の家族という感じでしたね。



みなさん。
家族っていいですね。

教団も教派も無い、主にあって一つの家族。


主義主張の一致ではなく、愛によって一つになりましょうね。



愛の一押しを感謝します。
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賛美する者は美しい。

先日のMigiwaさんのワーシップライブについて書きましょうか。

Sound of Worship という、クリスチャンを元気づける賛美礼拝に参加してまいりました。


http://asaph.jp/sow/index.html


8月21日の中野島教会ですね。


ひッさしぶりに賛美に酔い満たされました。
Migiwaさんの熱い賛美に信仰を燃やされましたね。

始まる前に祈っていたのですが、いやはや、御霊が祈らせてくださりすでに準備万端。
まるで命の水が湧き出るような心が満たされる感じ。



はじめにWorshipJAPANの方々が3曲くらいだったかな。
オリジナルの賛美をしまして流れを作ります。


いよいよMigiwaさん登場。

・・・失礼なことなんですが、最初にね、あの、明るいTシャツを着た小柄でほっそりした人が、マイクの近くに来たときに「誰だろ?ユースのメンバーの方かな、何かセッティング?調整をしに来たのかな」と思ったのです。

が、Migiwaさんでした^^; ごめんなさい。



Migiwaさんの信仰による賛美リードは力強くかつ繊細で、なにより、賛美する姿勢や言葉に神様への思いの深さがあらわれているんですよね。

証も良かった。

その思いに導かれるように、私も神様へ向かう思いが鮮明になるような感覚でした。


自然に祈りがあらわれ、素直に悔い改めが起こり、熱い心で賛美せずにはいられなくなる。。

イエス様、あなたの愛はなんと素晴らしいことかっっ!ハレルヤ!!!主の御名に栄光!!!



そんな感じの信仰ハイテンションのワーシップ。



私、久しぶりに恵まれる感覚を体験して感激しておりました。

嬉しくってしょうがなかった。





こんな人がいたんですね、まっすぐに神様に向かって賛美を捧げる人。

本当に美しいですよね、神様を見上げて賛美をする人の姿は。



罪深い自分のために命をかけたイエス様は、この人を生んだ。
この人を愛し、生かし、育て、素晴らしい賛美者としてお立てになった。


主のなさることはすべて時にかなって美しい。
まさに、この時をくださった主へ感謝の祈りを捧げる賛美礼拝でしたね。




この中で、実はね、ちょっと悔い改めさせられたのです。

神様への情熱で賛美するMigiwaさんはじめ、バンドの方々にくらべ、会場に集まる方々は落ち着いた感じ。


個人的には、もう、心が満たされて積極的に賛美の声を上げていたのですが、会場は信仰の火を内に燃やし聞き入る方が多く、若干もどかしい思いをしてしまいました。


「賛美しようよ!一緒に神様への喜びを分かち合おうよ!」という思いだったので、手拍子をしなかったり、歌わない方々を裁く思いが少しづつ心の隅に湧いていたのです。

しかし、そのような罪深い私の思いを知る主は、メッセージの時間に國分牧師を通して諭します。


十字架にかかるイエス様、左右にかかる犯罪人。片方は主を罵倒し、片方は主を認める。十字架の苦しみ、リアルな痛み。すべて私のために。私の罪のために。


私は人を裁き、会場に集まる方一人一人のために十字架にかけられたイエス様を、否定する姿でした。

それぞれに救いの体験があり、一人一人の信仰を証する時があり、みんながありのままの姿で主への喜びを捧げています。


力強く歌い上げるのも、心の内で神様への思いに深く満たされることも、信仰の賛美に静かに心を解き放つのも、すべて素晴らしい礼拝。


私は、私個人の信仰の姿勢に皆を従わせようとしていましたね。
反省。


つくづくイエス様のあがないの深さを感じる時でした。


今度の土曜日、28日には東京の「神の家族主イエス・キリスト教会」でSound of Worship 2回目が行われます。


行くかな。多分。




次は田島実牧師がメッセージをしてくださいます。


皆様方におすすめいたします。みんなで主への賛美に浸る喜びは、なにものにも代えがたい恵みです。
祝福が皆さんにありますように。

会場で会いましょうね。




最後に、もひとつおまけ話があって、中野島キリスト教会にいってまず、お手洗いをおかりしたのです。用をすませ手を洗うときに、先にトイレに入っていたおじさんにご挨拶をしました。

私「こんにちは」

おじさん「あ、こんにちは。ようこそいらっしゃいました。」

私「あ、こちらの教会の方ですか?」

おじさん「・・・ええ。どうぞ楽しんでいらしてください。」(ちょっとうろ覚え)

私「はい、ありがとうございます。」



そのおじさん。




メッセージしてた。






主任牧師さん。





なんとも定番の流れ。





教会員のおじさんと思いきや主任牧師さん。



あうち。





まあ、”こちらの教会の方”に間違いはないですよね。


主は恵みたもう。トイレで。



教会に来て早速、きちんと主任牧師さんにご挨拶をさせてくださいました。


ハレルヤ!主に感謝の拍手!!!






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