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隠れたところで隠れた神様

マタイ6章

6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。




6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

6:18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。




いろいろと、自分のことを良く見せたいものです。

努力しているところ、特別なところ、うまく出来たこと、苦労したこと、付き合っている人のこと、所属している集まり。


やっぱり、自分は特別だと思われたいし、すごいと思われたい。自分を話題の中心にしたい。


でも、ありのままの自分は頼りなく、何かにすがりたい弱さをいつも隠している。


神様の前では、一緒。





あなたが、人に何も認められなくても、神様は知っている。

人知れずがんばったあなた。
心に秘めた苦労の数々。
隠れた自己犠牲。


言わないほうがいい。見せないほうがいい。




隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださる。






神様はあなたのことを心から愛しています。

あなたに喜びがあり、あなたの周りに喜びがありますように。
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しずまれしずまれ。

「熱い。」


一日に一回は必ず言う言葉になってしまいました。



もうどうしようもない猛暑です。

みなさん体調を崩されていませんか?


うちの教会にお家の中で熱中症になられた方がいます。


油断できません。



この夏はあちこちで大変なことになっておりましたね。
自然が猛威を振るっております。

雷、竜巻、大雨、洪水、激しい自然と共に生きる私たち。



神様の創造された自然というのは、かくも力強く、私たちの生活を揺さぶります。


思うのですが、このような力強い自然の働きなどを含め、すべての創造の御業の結集たる人間も、思いの中で、心の内に、御しがたい自然の働きを秘めているのではないでしょうか。



心の中にも暗雲がたちこめ、嵐が起こることがあります。雨風に耐え忍ぶ心持ちの時があります。


ここで聖書。マタイ。
8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
(新共同約)


嵐の中、舟にのったイエス様の弟子たちは恐れおののきました。このままでは船が沈んでしまう!

しかし、イエス様はと言えば、寝ております。



あわててイエス様を起こす弟子たちにイエス様は言います。

「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」


そして怖がる弟子たちの前で、風と湖を叱り、嵐をしずめます。




すごいですねぇ、イエス様。
その言葉には力があります。



さまざまな困難の中、荒れる思いを鎮める主の御言葉が、私たちの生活には必要不可欠です。


何より、こんな嵐の中、主が休んでおられる、ということが重要。

もし、本当に弟子たちに危険が迫っていたら、イエス様はどうしたでしょうか。

ほうっておくことは無いと信じます。全力で助けることでしょう。
命をかけて十字架に歩んだお方です。



そのイエス様が眠っておられる。

私たちは時に、苦難の中、なぜ神様は助けてくださらないのか。答えてくださらないのか。と、不安になり、心を乱すことがあります。

しかし、本当に助けが必要な事態であるなら、神様は確実にたすけてくださるでしょう。


イエス様は寝ておられる。
それなら、この嵐の中でも大丈夫なのだと、イエス様の横でともに寝るくらいの信頼をもちたいものです。

たとえ嵐が吹き荒れていても、心を主にゆだね、平安でいること。


この夏。安心してイエス様におまかせしましょう。


全国ハレルヤ注意報!



神様の夏を賛美いたしましょう。

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「その通り。」

「聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません」

この言葉に不信感をいだく方がいます。
この言葉に傷つけられる人がいます。




私は何と言えばいいかな。

「その通り」

そう答えよう。



大事なのは、聖書に何が書かれているのか。


「愛」


神様の愛を信じなければ救われない。

神様が無条件であなたを愛しているということを、そのままに受け入れなければ救われません。


これ本当。

何を信じるって、神様の愛だよ。
どこまでも真実の愛。

それが私たちには注がれているってこと。
イエス様のおかげでね。


これだけが世界で唯一の真実。



いろいろな宗教があるし、良い教え、人を解放に導くものもあるかもしれない。
でも、イエス様は他の宗教にはいないね。

私が神様とつながるために命をかけた人ってイエス様だけです。


神様の愛が現れた。

それがイエス様。


私はこの方を受け入れる。





私の罪すべてを背負われたイエス様。
私がこの方に受け入れられたから。

いつも神様が先。




ハレルヤ!

何をしてほしいのか。

「何をしてほしいのか」


「主よ、目がみえるようになりたいのです。」

ああ、見えるようになりたいよ。
神様の愛を。主の御言葉を。御霊の真理を。
与えてくださった星の数ほどの恵みを。自分の罪の姿を。

私は、見えるようになりたいのです。


いまの私は見えている気がしているだけ、ふりをしているだけにすぎません。

なりふり構わず叫び求めた盲人の渇き。
見えない彼には見えていた救い主。
「ダビデの子」とは予言されていた救い主の称号。

「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」


よくも声を上げたものだ。

確信があったのでしょうか。イエス様。彼こそが世の救い主。
だからこそ機会を逃さず、叫んだ。

喜びと恐れと、不安と期待が入り混じった声。
いまこの時を逃したら、私は後悔する。

「ダビデの子よ、私を憐れんでください」

その叫び声が聞こえるようだ。

私にはどれだけ見えているんだろう。

御言葉に従う。信じるといいながらも、大切なことを見過ごしにし、自分の状況や、環境だけに囚われている姿はないだろうか。

排他的な自己中心に陥っていないだろうか。
イエス様とともにいた人たちは、彼を黙らせようとした。

私には罪びとや病人に注がれる主の憐れみが見えているのだろうか。



世界の各地で苦しむ子供たちの姿を、私は主と同じ目で見ていないのではないか。
誘惑と虚偽がでかい顔をして歩くこの国の人々の、餓え渇いた叫び声を聞いていないのではないか。
教会の中で、人知れず重荷を抱えた友の悩みを、見過ごしていないだろうか。
寂しさを感じている家族の、手を握り励ますことを忘れてはいないか。
私自身の悩みや、寂しさを、取り扱ってこなかったことはないか。

私には今日まで、助けとなるはず手を差し伸べなかったことが何度あったことたろう。
助けが必要だった時に「助けて」と素直に言わなかったことがどれだけあったことだろう。


私は自分が見えていると思い込んでいる。
実は自分自身すら見えていない。


「何をしてほしいのか」

無限にあったかい言葉だよ。


主よ、見えるようになりたいです。

聞こえるようになりたいです。

愛せるようになりたいです。

私は弱い人間です。だからこそあなたが必要なのです。
主よ。


この盲人にならう者とさせてください。


ダビデの子イエスよ。


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流れる教会。

教会はクリスチャンのためにあるのではない。


教会は世界のためにあるのであって、クリスチャンが集まるための場所ではない。


教会運営を中心に考え、そのための信徒、というようなイメージは救いを逆手にとった客商売のようなものだ。


神殿で商売をする人々になってはいけない。


教会が教会の存続のために立つのでは意味が無いんだ。
教会はいつでも、世界の救いのために、世の暗闇で迷う者に目を向けていく必要がある。


Mat 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
Mat 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
Mat 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。


私たちは暗闇で躓く者のために、光を掲げなければならない。

救われた自分の姿を眺めるためではなく、人々を暗闇の底から救い出すため。



どれだけ多くの教会がクリスチャンとしてふるまう場として、教会を維持しようとしていることだろう。

砕け散ってもいいから、外へ弾けて行きたい。


水は溜まったままでは濁るからね。
流れよう。

雨となり川となり海となり、全地を覆い尽くすクリスチャン。

水は低いところに流れるよ。

神殿の高みに上っていないで、地の底で暮らす人々と共に歩む。
そんなクリスチャンであり続けたい。



主の栄光がみなさんと共にありますように。

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