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天の働き人。

ご無沙汰しておりました。
最近、新しい仕事につき、日々苦難の中に生きております。日曜日が休みでない仕事というのは苦しいもので、いまじぶんがいつを生きているのか分からなくなるんですね。
日曜日の礼拝を中心に生きてきたものにとって、途方も無い混沌とした日々です。

そんな中、先日、SOUND OF WORSHIP(http://asaph.jp/sow/index.html)という賛美礼拝に参加してまいりました。
被災地に住む方々への救援物資を募り、また皆で祈り、賛美をしました。

前半では神様の愛を思い自然と泣けてきました。いま、教会からはなれた職生活をしている自分に向けられた神様の限りない愛。
生かされている恵みを感じました。

後半、ゲストでこられた横山大輔さんのメッセージが良かったですね。
クリスチャンとして、被災地でなくなられたかたに福音を伝えることができなかった悔い改めを語ってくれました。

自分がいかに大切な働きを天からゆだねられているのか。
私はいま自分の仕事のことで手一杯になり、ほかのことは考えられない状況ですが、主を証しする以上の仕事があるでしょうか。

被災地にmigiwaさんが行き、そこでトン汁を作って、お配りしてきたそうですが、歌を歌ってほしいと願われたそうです。はじめはこんな時に歌なんて、怒られるんじゃないか、不謹慎じゃないか、歌よりももっと助けになることがあるんじゃないかと、躊躇されたそうですが、歌ってほしいと願われて、歌を歌ったそうです。

そこにいた皆さんから大変喜ばれたそうです。

僕たちには与えられた恵みによって、人を癒し生かすことができる働きがあります。どのような時でも神様を賛美することができる恵みがあるのですね。そしてそれによって慰められる人々がいます。

与えられている場所で、自分なりに、精一杯イエスキリストを証ししていきたいと改めて思います。
私たち自身が変えられ、新たにされて、福音を伝え続ける天の働き人となれるように祈ります。

主に栄光!
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近くの教会を訪ねました。

本日、引っ越した家の近くの教会で夕礼拝をささげてまいりました。


夕方7時からやっているんですね。



教会のことで悩んでいた私は、他の教会を探したほうがいいのかなと、よい(?)教会を探していました。

で、先週の日曜日に、とりあえず近くにある教会の外観だけでも見にいってみるかなと思い、テクテク歩いていきました。

教会はあっちっていう看板に従い歩いていると、何か小さい新聞というか、チラシというか、紙が落ちていて、なにかなと思い手に取ると、その教会で発行しているチラシでした。



「おお、神様、何ですか?なぜここに落ちているんでしょうか。あなたが用意してくださったのですか」

ちょっとした興奮。


でも、ぐるぐる回っても教会は見つからず、、

うーん、どこにあるの?


いいや、見つからないものは見つからない。
帰ろ。とあっさり。

戻ろうとしたところ、ふと道端に、また何か紙。


まさかと手にとると、その教会のさっきのとは違うチラシ。


「うわあ、神様、教会を見つけられなかった私に、こうしてちゃんと情報をあたえてくださるんですか。」

神様は不思議。
どうやって、それが私の手に渡るように、タイミングよく人を通し、落とさせたのか。

神様のなさることは計り知れません。
ただ感謝。

すべては神様の御業です。





ということで、改めてHPで場所を確かめ、その教会に行ってみました。
聖書箇所はルカ11章1~13節。


祈りです。



神様は、祈り求めなさいと何度も何度も私に教えておられます。


前の記事で書きましたが、まさに、いま、祈りの時です。


神様は与えてくださると約束してくださっています。

あきらめず、教会で苦しむ人のために、祈らなければなりません。


その救いのために、イエス様の御言葉が働かれるように、祈り続ける必要があります。

神様は改めて私を祈りに導かれました。


友のために求め、探し、たたく、積極的な信仰の姿勢を学びます。


私には何もない。しかし、神様が必ず与えてくださいます。

愛する友のため。。

イエス様こそ、飢え渇く私たちのために、命を捨ててまで救いを願ったのです。

私も、教会の一人一人のため、愛する兄弟姉妹のために、祈っていこうと思いました。


また、励ましや祈りをいただける教会を探して積極的に訪ねてもいいんだと思いました。
そこに教団を超えた本当の兄弟姉妹の交わりがあるのだと思います。

主が導いて下さると信じます。


教会で一緒に祈った方も「神様が示してくださるなら行ってみてください。そこでの神様との出会い、祈りの中で考えて、また祈って、この先の歩みを主の導きにおゆだねしましょうよ。」とおっしゃってくださいました。


主よ。私たちはあなたの愛によって生きています。

教会をお救いください。

あなたが教会をおさめてくださいますように。



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祈りましょう。

教会の方とお話をしました。

教団についての疑問。

悩み。

祈らない教会。



長くその教会にいる方なんですが、やはり同じように苦しんでいたそうです。

「教会が大きくなるわけないわよ、だって祈らないんですもの。」

その方は、なんといいますか、祈りがとても丁寧で、一つ一つのことを心から自分の言葉で祈られる方です。


人生を神様と向き合ってこられた方なんですが、礼拝のメッセージで何も感じられなくなってしまったそうです。

礼拝には惰性でくるようになってしまったと嘆いていました。



教会で苦しむ者がいます。
教会で餓えてしまうんです。

教会で絶望するんです。
教会であきらめるんです。

教会で死んでしまう者がいるんです。


なんと恐ろしいことでしょうか。
教会に救いがなくなってしまうなんて。


私にとってキリストを信じなくても救われる、すでにすべての人が救われるという教えは、救いを奪う教えです。

何の恵みもかんじられません。

すでに救われているなら、この命は呪いでしかないのです。
肉をもって生きる限り、苦しみは尽きません。

すでにすべてが救われているなら生まれる必要なんてない。
ただ苦しみ痛むために生まれるようなものです。

神様を恨むし、それなら、全世界を滅ぼしてしまいたいです。
みんな救われているなら、そのほうが、はやく御国にいけるわけですから。

なにも苦しい思いをして生きる必要はないんです。
救いのために、全人類、被造物の命を絶つことこそ、苦しみ多い人生から解放する手段です。


どんなに喜びある満たされた人生を送っていても、天の御国において神様とともに生きる以上の喜びはないわけですから、早く、命をたってしまうほうがいい。


そんなこんなを考えておかしくなってしまいます。


すでに救われている。イエスを信じなくても救われる。

その考えが正気のものとは、私には思えません。


教会の方とともに手をつなぎ祈りあいました。
教会が祈りに満ちるように。
主に心を開き、御心によって満たされるように。

祈りの教会になるように。
私たち自身が変えられて、神様以外を頼りにすることがないように。

御言葉により真実があらわれるように。

教会で苦しむ者がいなくなるように。

二人で涙で祈りました。




すでに救われている、その考えだと、祈る必要もないわけですよね。


私たちの涙も意味がないんです。



私はその考えを否定します。

神様はいます。
神様が天地を創り、私たちを創りました。

イエスは救い主です。
死んで甦られました。

私たちの罪は彼によって購われ、イエスを救い主だと信じて救いに至るのです。

イエス様はいまも私たちと共に生きています。
いまこの瞬間も。


祈りました。


二人で祈りをしていきましょうと話しました。

礼拝の後で他に祈りたい人を誘って、祈っていきましょう。
誰もいなくても、二人で祈っていきましょうと話しました。

「だって、二人で祈るところには主がともにいてくださるんですもの」

小さな祈りの輪です。

でも主が共にいてくださいます。


教会が変わる。私たち自身が変えられることを信じ、祈り続けていきます。









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リベラルはあ。

いろいろなことがあるもんです。

最近悩んでいました。

すでにすべての人が救われている。イエスを信じなくても救いがある。

この考えがリベラルの信仰というものだと知りました。

また、リベラルはキリスト教会では主流の考えかたになっていて、ある方のお話では福音派の40%がこの考え方でいるそう。

私にとってイエスの復活は事実です。
心の中によみがえったとかそんなことではなく、実際に甦られたのだと信じております。

それがクリスチャンだと思っておりましたが、、そうではない方もいるんですね。

かなりショック。

他の宗教をしていてもいいんです。
すでに救われていますから。

金の像を拝み、強制的に献金をさせ、人の人生を破綻させてもいいんです。
イエスを信じなくてもいいんですから。
すでに救われていますから。

偶像はいかんなんていう必要がないわけです。なにしてても救われていますから。

人々を虐げ支配し権力を振りかざし、欲望の限りを尽くしてもいいわけです。
それでも救われているんですから。

超カリスマ牧師による過激カルト宗教もおおいに結構ですし、サタニスト教会で悪魔礼拝してても大丈夫。

イエスを信じなくても救われているわけですから。


まいった。

礼拝しなくてもいいし、もう祈らなくてもいいですよ、聖書を捨てて、おもしろおかしい本を手にとればいいんです。

もうすべて人は救われているんですから。


はあ、







もう救いようのない気分になります。

あなたの教会の牧師さんはリベラル派ですか?
保守派ですか?





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異言の祈り。


異言について考える。


私たちは本当に祈るべきことを、祈っていないことが多い。

自分にとって、いま、どんな祈りが必要なのかすら、私たちには分からない。
それくらい、私たちの生活というのは、御心から離れている。

私たちは、自分の感情のままに祈る。
いま困っていることがなくなるように、願っていることが叶うように、自分の知っている人、愛する人、友人が、守られ癒され救われるように。

自分の願いに心を置く祈りも確かに必要ではある。
イエス様も、苦しみの杯を取り除いてくれるように、神様に祈った。

しかし、すべては御心のままにという最終的な願いが絶対的に必要です。

自分のため、愛する人のために祈る私たちですが、迫害する者のため、自分にとって都合の悪い人のため、他の宗教者の方々のために祈ることも必要な祈りです。


また、自分の知らないところで苦しんでいる者のために祈ることも大事。こどもたちのため、他の国のため、未来のために祈ることも必要。

その中で、自分が本当は祈るべきことを、祈っていないことがある。
いま、まさに苦しみの最中にいる知人のために祈りが必要にもかかわらず、相変わらず、自分ことだけに祈りが向かうことがある。

異言の祈りとは、自分の願いで祈る口を御霊にゆだねること。

自分の考えでは到底及ばぬ、適材適所な祈りを、御霊が祈らせてくださる。

異言の祈りには、神様の御心での祈りが現れる。



その中に、必要な祈りがあり、必要な救いがある。


とまあ、書き連ねたが、あれやこれや言う前に、祈りましょう。

みんなで一緒に祈れますように。



天にまします我らの父よ。
願わくば御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが許すごとく我らの罪をも許したまえ。
我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。
アーメン。





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